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古事記

アンネの日記』を御存知だろう。

第二次大戦下のドイツ占領下のオランダで、アンネ・フランクと云うユダヤ人がユダヤ人迫害を恐れて潜伏生活を送った時の日記である。
この『アンネの日記』は、ドイツのユダヤ人迫害を象徴する書の一つとして、世界中に翻訳されてベストセラーになった。

ところが、この『アンネの日記』の原本の中には、ボールペンによる筆跡があると云う。当時はボールペンは使用されてはいない。
その為、この『アンネの日記』を、戦後に当時のドイツのユダヤ人迫害を喧伝する為に捏造された偽書である、と云う説を唱える者がある。
俗に「歴史修正主義」と呼ばれる運動家がそれであり、彼らはドイツによるユダヤ人600万人の虐殺は無かった、と唱えている。

歴史修正主義者の主張やユダヤ人大量虐殺の有無に関しては、この際ここでは触れない。
何を言いたかったかと云うと、
「だからと言って『アンネの日記』その物は全否定されて良いのか?」
と云う事である。
『アンネの日記』の原本に、一部ボールペンが使用されているとすれば、それは明らかに後世の文章であろう。つまり、後世に、何らかの意図を持って記述された証拠である。
しかしそれは、全文ではあるまい。全文であるならば、「アンネの日記はボールペンで書かれたから偽書だ」と主張するだろう。だが、「一部にボールペンが使用された」と云う事は、後世の捏造は「一部」であったという証拠でもあるだろう。
つまり、一部に意図のある加筆修正が行われていたからと云って、その全文を否定する証拠にはなり得ないのである。

ところが、この歴史修正主義者と同じ様な主張を、現代の我が国で堂々と主張し、それがさも定説であるかの様に断言する学者が多く居る。

彼らによって否定されているのは
『古事記』『日本書紀』である。

『古事記』と『日本書紀』には、確かに後世に意図があって創作されたと思われる箇所がある事が、古くは江戸時代の本居宣長の頃から指摘され続けている。
戦後になって、学会や論壇で皇室に関するタブーが無くなると、それらの指摘が声高に主張される様になった。
そして今では、それが為に『古事記』や『日本書紀』には歴史書としての信憑性は皆無であり、これらは「偽書」であるとまで断言し、それが定説であるとする風潮が顕著である。
これらを主張する者の多くが、戦後の言論の自由で雨後の筍の様に大量発生した、反日共産主義勢力とそれに影響を受けた言論知識人である。

個人的にも一人、知人の共産主義者が同じ様に「記紀」を否定し、聖徳太子は架空の人物であるとまで主張して憚らない人物を知っている。
実際に、それと同じ主張をする書やTV番組も幾つか見た事がある。それらの根拠もまた、上記の様に「記紀」の信憑性を否定し「記紀」を全否定する事で、そこに描かれる聖徳太子を根本から否定する論調に転化している。

しかし、『アンネの日記』と同様に、一部に信憑性を否定される部分があるからと云って、その文書全部を否定する根拠とはなり得ない。
『古事記』にも『日本書紀』にも、元となる資料が存在した事が、記紀にも明記されている。残念ながらこれらの書は現存しないが、「帝紀」「旧辞」「天皇記」「国記」らの書物である。
『古事記』を編纂し、『日本書紀』の編纂にも携わった太安万侶は、昭和五十四年にその墓が発見・発掘され、その実在が証明された。
『古事記』も『日本書紀』も、間違い無く一級史書なのである。


本日1月28日は、和銅五年(712年)に『古事記』の編纂が完成し元明天皇に献上された日から、1,300年目に当たる
現存する我が国最古の史書として、これを機に大事に省みたい。
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謹賀新年

新年、明けましておめでとう御座います。
新年の御挨拶に代えて。


 人の心すなほならねば、偽りなきしにもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。己すなほならねど、人の賢を見て羨むは尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己が心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮にも賢を学ぶべからず。
 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜 を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。


「徒然草」第八十五段より


<口語訳>
 人の心素直でないならば、偽りがないことはない。けれども、もとから、正直の人、なんかなかろう。己れ素直でないなら、人の賢を見て羨むは、尋常だ。至って愚かな人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得るがために、少しの利を受けず、偽り飾って名を立てんとする」と謗る。己れが心と違えるによってこの嘲りを言うのを知らない、この人は、下愚の性は移ることなく、偽っても小利を辞すことない、仮りにも賢を学ぶことない。
 狂人の真似として大路を走れば、即ち狂人だ。悪人の真似として人を殺せば、悪人だ。驥を学ぶは驥の類、舜を学ぶは舜の徒だ。偽っても賢を学ぶのを、賢と言うのだ。
 <意訳>
 人の心なんて素直じゃないから、自分自身の本性すら偽ってしまう。はなっから正直な人なんかいない。どうせ素直じゃないから他人の賢さを羨ましがるのは当然だ。
 でも、他人の賢さを羨ましがる心を、そのままに理解出来ないのは愚か者である。
 愚か者は、賢い人を見て、賢さを憎む。
「きっと大きな利益を得ようとして、小さな利益を辞退しているだけなんだろう。うわべを偽って名声を得ようとしているのだ」などとののしる。
 この人は、自分と賢い人とがどれだけ違うか顧みる事も無い。これ以上は賢くもならないだろう。たとえ偽りでも目先の得をのがす事はないまた、仮にも賢人の真似をすることができない。
 気違いの真似して大通りを走れば気違いそのものだ。悪人の真似と言って人を殺せば悪人だ。一日に千里走る馬を真似た馬は、一日に千里走る。舜の皇帝を真似たら舜の皇帝ともなろう。偽りでも賢さを真似たら賢くなりはしないか。
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