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俗に「冠婚葬祭」と一括りに云われるが、「婚」や「葬」が何であるかは皆知って居るが、「冠」が何であるかを説明出来る人が意外に少ない事に驚かされる。
本日は、その「冠」の日、「成人の日」である。

我が秋田県では昨日、成人式を行った地域が多く、または夏に成人式を行う地域も少なくない。

この成人式であるが、国際的に見れば珍しい、我が国独特の風習である。
始まりは、大東亜戦争終戦間も無い昭和二十一年、埼玉県の蕨町(当時)で開催された成年式が、全国に普及したものである。
これが、昭和二十三年に祝日法で「成人の日」が定められ、定着するに至った。

この成人を祝う慣わしの起源は、奈良時代頃からの公家や武家の元服の儀式であり、この際に冠や烏帽子を被らされた事から、「冠」の文字が成人を祝う言葉となった。
この元服の儀は、これから世の中に対して責任を担う、自覚と自立を促すものであり、それを認識し独り立ちする節目の儀式であった。
現代の成人式も、本来は、この精神を踏襲したものであり、敗戦の虚脱感から立ち直り、復興と高度成長、先進大国日本の復活を担った原動力の一つとなった。

しかし、この現代の成人式の風習も、半世紀を経て次第に変化変質が見られ、大人になる成人を祝う筈の式典を、「子供の世界」と歌うディズニーランドで開催する自治体が出るなど、新成人に佞ったりする傾向の式典が増え、また更には式典の最中に酒に酔って暴れて逮捕される者が続出したりと、凡そ本来の趣旨からは大きく逸脱する傾向が増え、成人式そのものの不要論も出始めて居る有様である。

成人を迎えた若者自身も、成人して初めて手にしうる、参政権の行使たる選挙権を行使せずに、国民たる自覚も無く、子供の延長線上に惰性的に過ごして顧みる事も無い。
その体たらくが、現状の我が国の低迷の源と云っても過言ではあるまい。

福沢諭吉の「学問のススメ」に
「一身独立シテ一国独立ス」
とある。
極東の貧弱小国であった明治日本が、如何にして僅かの間に、植民地化の危機を乗り越えたのみならず、欧米列強に伍するまでに成長し得たのか。まさに是れにあると言って良いだろう。

ならば、果たして我が国の現状は如何也や?
新たに成人を迎えた者も、そしてそれを迎える側も、国家社会の一員たるの自覚を再認識するべき、成人の日であるべきだろう。
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僕が総理大臣になったら

参議院議員の山本太郎が、
「僕が総理大臣になったら『総理官邸でほぼ毎週末、クラブイベントをやります』」
と発言した事が、ネット上で話題になっている。

「山本太郎の新春妄想原稿といたします」
と断った上での、妄想前提の寄稿文ではあるが、
「僕は、総理大臣になってこの国を変えたい」
と記し、昨年末の特別国会の総理大臣を決める際の首班指名に於いては、自分で自分の名を記名投票した事を明かしている。

政治家は皆、機会さえあれば総理大臣になってみたいと云う願望がある、と云う話を聴いた事があるので、ネット上で多く見られる
「山本太郎如きが総理大臣になろうなどと非常識極まり無い」
と云った批判はこの際置いておく。

「総理大臣、という最高権力者にならなければ出来ない事が山ほどあります」
と記し
「僕が総理大臣になったら『総理官邸でほぼ毎週末、クラブイベントをやります』」
「官邸だけでなく、永田町にある施設も週末クラブ化させ、パスを発行し、ハシゴできる様にします」
と続けている。

国会議員の仕事は、国民の代表として国家の大事を計る事である。
新春の、国会議員としての所信表明として、この様な事を主張すると云う、その神経を疑う。
生徒会長選挙に立候補して、「僕が生徒会長になったら、毎週末体育館をクラブ化する」と言う様な、そんな次元の話を国会議員として、国家レヴェルの話としてしているのである。低レヴェルのパフォーマンス的発言でしかない。
そこには、国家観も無ければ、国民の代表者として国政を預かる国会議員としての自覚や使命感すら感じられない。

国会議員のレヴェルは国民のレヴェルの映し鏡である、と云われるが、この様な人物を国会議員にしてしまった有権者の責任は大きいと言わざるを得ない。

かつて、杉村太蔵と云う頓狂な発言をする国会議員が居た事があったが、この議員はその発言に因ってメディアの批判を浴び、所属する自民党からきついお叱りを受け、後に落選の憂き目にあった。
当然と云えば当然の結果であるが、件の山本太郎はコレ以下であると言っても誰も異論を挟むまい。

しかも、小沢一郎代表の生活の党がこの山本太郎と組んで、
「生活の党と山本太郎となかまたち」
と云う政党を作り、国民の税金から億単位の政党助成金を受け取ると云うではないか。
もはや、悪趣味な冗談としか言い様が無い。

尚、この発言に於いて、見落としてはならない部分がある。
「総理大臣、という最高権力者にならなければ出来ない事が山ほどあります」
山本太郎となかまたちが、何を欲しているかがこの発言で明らかである。

内閣総理大臣とは、国家の行政の『最高責任者』である。
最高『権力者』等と云う、やりたい放題出来る、しても良いと云うモノではない。

つまりこれは、山本太郎となかまたちは、『権力』と『カネ』が欲しいだけの、大義も理想も無い、権力志向者でしかない証左である。
さながら、北鮮の金王家やその取り巻きと、精神構造が同じであると言っても強ち誤りでもあるまい。

昨年暮れの衆議院議員選挙では、記録的な低投票率であった。
有権者が有権者たる責任を果たしていない。
これは、主権在民を謳った民主主義制度を採用する国家の国民として、自殺行為と言わざるを得ない。
その象徴的な存在が、この参議院議員山本太郎であろう。
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